STAP細胞騒動と日本的「ムラ社会」(2)

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個人的に、日本からのニュースやブログ配信される記事で最も見たくないものは、国際的に誇るべき偉業を成したと思われる人物を皆がこぞって(過剰に)賛美するものと、その人物が何かでミスをすると日本の恥だ言わんばかりに徹底的に批判し、過剰なまでにバッシングし断罪するものです。

偉業をなした個人に対して「日本人はすごい、日本の誇り」と最初は褒め称えるけど、失敗したら「日本人の恥」とあっさり切り捨てるわけです。

ムラ社会では、一旦成功した後でバッシングを受けた人間は、その社会では再起不能にまで打ちのめされます。それはなぜかというと、その人物が何かで上手く行って社会的に奉り上げられている間、ムラ社会では、その人物を素直に褒めるというよりも、羨ましいとか憎いという気持ちがむくむくと膨らんでいるからだと思います。そしてそれが何かの拍子にはじけた場合、醜い結果になるのです。別の言葉では、「出る杭は打たれる」ということだと思います。

そんなムラ社会的記事は、何度見ても気分が悪くなりますし、本当に怖いと思います。

日本と米国の両国でビジネスや文化活動を行っていて本当に感じるのは、米国ではその人の良さを認めて、素直に、そして心から褒め合うということです。米国と言っても、特にニューヨークなどでは住民の40%が外国生まれと言いますから、いわゆる米国人に限りません。米国社会に住んでいる人であれば、アジア人を含む外国人でも同じ傾向があります。

当地でビジネスを始めてから十数年が経ちますが、本当に多くの人々から助けられ、勇気づけられました。

感じるのは、日本人でも日本コミュニティを一歩出ると、人の良いところだけを見て褒め合う傾向があることです。外国人の集まる社会は、すなわち、ムラの境界がないそれこそボーダレス社会であり、そこではそれぞれのムラ社会の束縛から解放され、どこの国の人であってもある意味、人として本来のあるべき振る舞い(に近い振る舞い)ができるのだと思います。

人の言動を見て腹を立てたり高ぶったりして停滞する暇があるなら、他の人の良いところを見て刺激を受け前に進んでいきたいと思うのだと思います。

日本人としての暮らしやすさは日本(特に東京)が一番です。しかし、自分たちの社会はこれだと定義し、それに合わないものを差別し排除しようとするような日本の空気には本当に怖さを感じます。日本だけではなく、韓国や中国にも同様の傾向があると思います。例えば、今の東アジアの緊張の高まりも、国同士の対立が原因というよりも、それぞれの国がその内部で抱えるムラ社会内部の問題の裏返しだと思うのです。すなわち、ムラ社会は、ムラのルールを乱す内部の人間に厳しい一方で、ムラに対する外からの攻撃に対しては全力で抵抗するのです。 いずれもムラ内部がより団結することにつながります。

ニューヨーク等の究極のグローバル社会では、そのような対立は無意味だし、ある意味不可能だと思います。自国から離れた不便な社会で、皆、生きるために必死だからです。皆バラバラです。しかし、物質的には日本よりかなり不便でも、余計なことを気にしないで生きていける社会の方が、精神的にはよっぽど便利だと思います。

もちろん、グローバル社会やボーダレス社会においても特定の人物がバッシングされたり過剰に批判されるということがあります。しかし、ムラ社会のそれとは背景も理由も全く異なるものです。

小保方博士のニュースについて、外国でも日本と同様な関心が高まっているという日本国内の報道や記事もあるようですが、学術ソサエティでの話は別として、メジャーなメディアで小保方さんに関する報道を見たことはありません。

ムラ社会は、何も理研だけではなく、全ての国民を含む日本社会全体そして、海外の日本コミュニティでも同じでも同じだと思います。今の日本社会を見ていると、今まで開こうとしていたグローバル社会への扉を自ら閉じようとしているように見えてしかたがありません。

どんな人でも、同邦人や、家族、同業者等の比較的近い関係の人たちからバッシングを受けることほどつらいことはないと思います。会社なら辞めれば済むことですが、上記の関係は決して切ることのできない関係です。そして、それらの人こそ、その責められている人の気持ちを分かってあげるべき人なのですから。

時々自分の中から出てくるムラ社会根性を戒めつつ。。。。

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