アメリカは「人種のるつぼ」、それとも「人種のサラダボール」?

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【Go Globalブログ】アメリカは「人種のるつぼ」、それとも「人種のサラダボール」?

皆さんこんにちは、

先日、マンハッタンで行われたイベントの帰り、ニューヨークの地下鉄に乗っていて思ったのですが、本当に様々な人種の方々がいます。人間を動物に例えるなら、まさに動物園状態です!ライオン、ゴリラ、キリン、熊、、、、(笑)。あるいは、スターウォーズに出てくる、色々な星から来た宇宙人で賑わうバー、のような感じです。色も異なるし、大きさも異なるし、話す言葉も異なります(笑)。

メルティングポットとサラダボール、一体どちら

こういう状態が、まさにニューヨークが「人種のるつぼ」と呼ばれる理由でしょう。人種のるつぼの「るつぼ」とは、英語ではMelting Pot、人種が溶けて混ざり合っているという意味です

しかし、これに対して、人種のるつぼと言うのは間違っていて、「人種のサラダボール」すなわち、人種は混ざり合っておらず、人種毎に住み分けができているんだという指摘があります。

下記のWIKIの記事には、むしろ人種のサラボールと呼ばれる方が多いという記載もあります。

さて、メルティングポットとサラダボール、一体どちらなのでしょう??

メルティングポットとサラダボール、どちらも正解

以前このブログでも書きましたが、アメリカは移民国家ですから、自宅等のプライベート空間では自分の出身国のローカル文化、学校や会社等の公共空間では色々な国の出身の人がまじりあったグローバル社会となります。
すなわち、家では、ローカルに、自分の国の言葉で家族とコミュニケーションを取るハイコンテクスト社会学校は多民族が混在するグローバルなローコンテクスト社会という環境で皆育ってきています。この2つの社会は、色々なことの前提となる常識や習慣も全く異なります。

ハイコンテクスト社会とは同じバックグラウンドの人たちが集まりあまり多くのことを語らなくても言いたいことが伝わるような社会で、例えば日本です。ローコンテクスト社会とは、バックグラウンドや言葉、文化が全く異なる人たちで構成され、ちゃんと細かく説明しないと言いたいことが伝わらない社会を言います。私は、この概念をアメリカのダニエルピンクが書いたハイコンセプトという本で学びました。

アメリカにはこのように二つの全く異なるコンテクストの社会が同居していて、頻繁に常識や言葉、文化を切り替える必要があります。したがって、ここで暮らす人は、自然と、ローカルとグローバルという2つの社会でのコミニュケーション方法を切り替える能力が身に付くのです。

言い方を変えると、多民族が学ぶ学校や会社等のローコンテクスト社会がメルティングポットの概念に相当し、各人の自宅等のハイコンテクスト社会の集合体がサラダボールに当たると思います。したがって、アメリカでは、メルティングポットとサラダボールが矛盾することなく同居しているというとができ、だからこそグローバル社会であると言えるのだと思います。

よくグローバル社会とはメルティングポットの状態だけを指すと誤解している人がいますが、ローカルとグローバルとの切り替え能力を持つ社会や人ことをグローバルというのだと思います。

私が参加したイベントも、歌手はアフリカ系アメリカ人でしたが、ファンはアジア系、欧米系、アフリカ系、本当にまさに人種がまじりあった状態でしたが、恐らく、彼らも家に帰れば彼らと同じ人種の家族と過ごしていることでしょう。

皆さん、こんにちは! 私は、過去十数年に亘り、毎月のよう に日米を往復してきました。 今回は、そんな生活で経験した、日米 の...

一方、アメリカはメルティングポットではなくサラダボールなんだ!と主張する方もいますが、おそらく、完全なメルティングボットはあり得ないという考えで仰っているんだと思います。しかし、メルティングポットとサラダボールはどちらか一方でなければならないことはなく、上で述べたようにメルティングポット、すなわちグローバル社会はサラダボールが前提となるわけですから、両者は矛盾しないのです

グローバル社会では、自国の文化や言語を大切にし、他国の文化や考えたかも尊重する気持ちになる

アメリカに来てこちらの人と交流した経験のある方なら、自分の人に対する気持ちが寛容になる感覚を感じたことがあると思います。

すなわち、他のアジア諸国の人に対する許容心が比較的狭い人でも、アメリカで実際に他のアジア諸国の人たちと交流すると心が広くなります。このような感覚について、国同士の関係と人の関係は違うなどと理由付けする人がいますが、そうではなく、自分の中でローカルとグローバルのスイッチが切り替わっているからです。

どんな人でも、人格を変えなくても、グローバル社会に入れば、ローカル社会での常識に自動的に切り替えることができ、許容心が広くなるのです。日本人同士なら許せないようなことでも、他の国の人なら気にもならないというのがまさにグローバル感覚なのです。外国人に日本人の常識を押し付けてもしょうがないと思うわけです。

グローバル力とは?グローバル力を鍛えるにはどうすれば良いか?

したがって、グローバルな人間とは日本の感覚を捨てた人のことを言うのではなく、ローカルとグローバルを切り替える能力のことを言うのです。この能力はすべての人にある程度は備わっていますが、この能力を鍛えれば、ローカル社会の中にいてもグローバルなものの見方ができるようになります。それこそがグローバル力というべきものなのです。

グローバル力を鍛えるには日本人の割合が半分以下の社会に属することが良いと思います。もっとも簡単なのは外国で暮らしてみることです。

いかがでしょうか?

今回はこの辺で!

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