なぜ宗教は対立するのか。グローバルスタンダードを巡って、、 

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ソルトレイクシティへの出張でクライアントから頂いた「モルモン書」や「ジョセフスミスの証」のパンフを読んでみた。

ジョセフスミスは、彼の目の前に現れたイエスキリストから「どこの教会に加わってはならない」、「どの教会の教えも誤っている」との言葉を与えられ、預言者としてモルモン教会を設立したとあった。その「間違っている教会」の方に属している既存プロテスタント系クリスチャンの私としては確かに違和感のある内容ではあったが、一方で、ジョンスミスの言ったことにも一理あると思った。

モルモン教も既存キリスト教会も同じ「聖書」を信じている。ジョンスミスによれば、聖書は正しいが人間の作った宗教(モルモン以外)はでたらめだというわけである。この考え方は、ある意味、真なのだろう。何が真かというと、「聖書は正しいが人間の作った宗教はでたらめだ」という部分である。

聖書によれば、神は正しいが、人間の悟りは間違いだらけだ。そして、聖書は神のことばである。

聖書を読み、いろいろな人が色々な悟りに至り、様々な宗派を確立する。そして、同じ聖書を参照しながら、お互いに批判し合う。あるいは個人レベルでも同じ箇所の聖書のことばをその時々の都合の良いように自分勝手に解釈する。その構図は、誰が間違っているとかどの宗派がいいとか言う以前に、まさに、聖書の「聖書は正しいが人間の作った宗教はでたらめだ」ということが真理であることを示していると思う。

アメリカで考えた場合、ほとんどの宗教や宗派に通用するいわば共通の指針、いいかえるとグローバルスタンダード、が聖書(特に旧約聖書)である。そうやって考えると、聖書は本当に偉大であり、だからこそ、いろいろなグループがその聖書を味方にして、自らが普遍的なグローバルスタンダードであるり正しいと主張しあっているのだ。しかし、聖書によれば、それらのグループのいずれの主張も、絶対的に正しいわけではなく、もちろんグローバルスタンダードでもないのだ。

なぜ、神は、もう少し明瞭な言葉で、また、詳細な事柄にまで聖書で触れなかったのだろうか。それは、おそらく、そうしたとしても、人の間に争いがなくなることはないことを知っていたからなのだろう。 そして、それにもかかわらず依然として聖書は皆にとって絶対的に正しく普遍的なものであり続けるのだ。

本当に、人間は間違いやすく、真理は神のみが知っており、人間はそれを知ることは到底できない。人間ができるのは、真理を知っている神すなわち聖書を信じることということだけなのだろう。聖書には、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5-6節)ということばがある。これだけ違う人種が集まっていても2大政党に集約されるアメリカと、同じ人種で14もの政党が乱立する日本。ほとんど同じなのに些細なことで違うといってお互いにいがみ合っている昨今の日本の政治を見ていても、本当にそう思わされるのであった。
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日本・米国弁理士/折り紙プロデューサ 矢口太郎

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