皆さんこんにちは、
10月の中旬にスイスのジュネーブに仕事で行ってきました。
最近、中東で宗教に起因する衝突が激しさを増していますが、実はジュネーブも宗教上非常に重要な町です。
すなわち、ジュネーブは、「プロテスタントのローマ」と知られ、特に「宗教改革」の中心地となったことで有名です。この宗教改革が、最終的にはピューリタン迫害、そして、アメリカの建国につながったので、アメリカにいるプロテスタントのキリスト信者の私としては非常に興味深い町なわけです。
プロテスタントでは、10月末の日曜日がリフォメーションサンデーとされ、ドイツのマーチン・ルーサーにより開始された宗教改革を記念する日となっています。また、11月には、ピューリタンのアメリカ上陸そしてその後の祝福を記念する感謝祭も控えています。したがって、この時期にジュネーブに行くことは非常に意味があったわけです。
この記事の目次
リフォメーションサンデーとは
リフォメーションサンデー(Reformation Sunday)は、プロテスタントの教会で毎年祝われる記念日で、宗教改革の開始を記念するものです。実際には、10月31日にマルティン・ルターが1517年に95ヶ条の論題をヴィッテンベルクの城教会の扉に掲示したので、10月31日をリフォメーションデーとし、その直前の日曜日、すなわち主日礼拝の日を、リフォメーションサンデーとしているわけです。すなわち、1517年の10月31日が、プロテスタント宗教改革の始まりと見なされているということになります。
リフォメーションサンデーは、キリスト教の歴史における重要な出来事を思い起こし、プロテスタントの教えや信仰の根本を再確認する機会となっています。多くのプロテスタント教会では、特別な礼拝が行われ、宗教改革の主要な人物や出来事、そしてそれがもたらした教えや影響について語られます。
スイスのジョン・カルバンと宗教改革の関係
ルターの95ヶ条の論題は、カトリック教会の免罪符の販売や教会の教義に対する批判を含んでおり、これにより彼は教皇や教会の権威に挑戦することとなりました。これを契機に、ヨーロッパ全土で宗教改革の動きが広がり、プロテスタント教会が形成されることとなりました。
マルティン・ルターが宗教改革の火付け役となったのは確かですが、スイスのジョン・カルバンも16世紀の宗教改革の主要な人物の一人として知られています。カルバンは、ルターの活動の後に登場し、特にスイスを中心に宗教改革の思想を広めました。彼の神学的な考え方や教会組織に関する理念は、カルヴァン派として知られる教派の形成に大きく寄与しました。ルターの宗教改革はドイツの周辺にしか影響を及ぼしませんでしたが、カルバンの宗教改革は、ヨーロッパ全土、そして上記したようにアメリカにまで影響を及ぼし、政治的により大きなインパクトを世界に与えたのです。
それが故に、ジュネーブは「プロテスタントのローマ」とも呼ばれ、宗教改革の中心地としてその名が知られているわけです。
宗教改革記念碑とサンピエール大聖堂
私がまず訪れたのは、宗教改革記念碑です。宗教改革記念碑は、ジュネーブの宗教改革を指導した4人の主要な人物、ジャン・カルヴァン、ユリウス・ファレル、セオドール・ベーザ、そしてジョン・ノックスの巨大な像が立つ場所です。この記念碑は、彼らの信仰と献身を称えるものであり、ジュネーブの市民や訪問者に宗教改革の重要性を伝えています。
次に訪れたサンピエール大聖堂は、ジュネーブの旧市街に位置する歴史的な建造物で、宗教改革の時代にはカルヴァン自身が説教を行った場所でもあります。大聖堂内部の静寂と荘厳さは、宗教改革の時代の重要性や、その後のプロテスタンティズムの発展を感じさせるものでした。
特に、ジュネーブが「プロテスタントのローマ」と称される理由を実感できたのは、サンピエール大聖堂の塔からの眺めでした。市内の風景やジュネーブ湖を一望できるこの場所から、宗教改革の中心地としてのジュネーブの歴史的・文化的重要性を感じ取ることができました。
イギリスのピューリタンと宗教的迫害
イギリスのピューリタンは、16世紀と17世紀に、アングリカン教会の典礼や教義に対してさらなる改革を求めるグループとして登場しました。そして、ジャン・カルヴァンが主導するカルバン派の教えは、イギリスのピューリタンにも大きな影響を与えました。カルバン派は、先祖代々の教えや伝統よりも聖書を直接読み解くことを重視し、神の主権や選ばれた者の教えを強調しました。これらの教えは、イギリスのピューリタンに受け入れられ、彼らの信仰や生活に取り入れられました。
しかしながら、ピューリタンは、教会の純粋化を求めていたため、その信仰や活動はイギリスの王や政府からの強い迫害を受けました。
ピューリタンのアメリカ移住、アメリカ社会への影響
迫害を逃れ、また宗教的な自由を求めて、多くのピューリタンは1620年代以降、新大陸である北米へと移住を開始しました。特にマサチューセッツ湾植民地は、ピューリタンの中心地として知られるようになりました。
ピューリタンは独自の厳格な宗教的価値観と社会規範を持っており、それが北米の植民地社会の形成に大きな影響を与えました。彼らは「神の都市」としての理想的な社会を築くことを目指し、強い共同体意識と教育の重要性を強調しました。これは、後のアメリカの公教育の発展や、自治の精神の形成に影響を与えました。
ピューリタンの自治と個人の自由を重視する価値観は、アメリカ独立の動きを支える基盤となりました。特に、政府の権限は人々の合意に基づくべきだという思想や、宗教的な自由の保障など、アメリカの民主主義の基盤となる価値観は、ピューリタンの思想に起源を持つ部分があります。
この旅行を通して、ジュネーブの宗教改革やカルバン派の教えがアメリカの歴史や文化、特にピューリタンの思想や行動に与えた影響を確認することができました。歴史の中で、異なる地域や時代を超えて、思想や信仰がどのように伝わり、変化していくのかを勉強することは、特に宗教対立が激しくなっている現在、意味のあることだと思った次第です。
それでは今回は、この辺で!